大変稚拙な文章なのだけど、1つの発見を自分の中でしたのだと思い、その記録を書きました。
正月早々、ミカンと餅ともに部屋に引きこもって、ひたすらひたすら「死」というものと向き合ってみた。
25にもなって何やってんだこいつと思われても仕方がないようなことを本当に飽きもせず、ただただひたすらしていたと思う。なんでこんなことをしていたのかには理由がある。それは今の自分の仕事の仕方に違和感を覚え始めたからだ。また、日本人にとって一番多い隠してしまいたくなる不浄というか汚れというか、そういう概念にも近い「死」というものに違和感を覚えたからという理由もある。2010年の11月、僕はグラフィックデザイナーになることにした。今まで、社会起業家とか、経営者とか経理とか営業とか、とにかく社会に出ることに全く興味の持てなかった僕が、ようやく見つけた本当にやってみたい働き方に近しいものだったからだ。当時は毎日が楽しかった。デザインのことで頭がいっぱいで、ロクに飯も食えない様な収入だったけど、なんとか貯金を切り崩しつつもなんとか食いつないだ。それでも楽しかった。今では当初に比べて飯も食えて(食えない時もあるけど)、出来る事も増えてきた。でも、当時あったエネルギーはなくなりつつある。デザインに飽きたわけではない。今後もこの仕事をやっていきたいと思っている。ただ単純に当時あった新鮮なエネルギーがなくなったのだと思う。
そもそもそんなにエネルギーが必要かという疑問も沸く。
正直、そこまでエネルギーは必要ないと思う。しかし、それは「僕だけが生きていくにあたって」の話しであって、「僕以外の人と一緒に生きていく」というなら話は別だ。仕事柄、心の底からエネルギーに満ちた人と付き合うことが多い。そんな人と歩調を合わせて仕事をするには、どうしても自分の中でも負けないくらいのエネルギーが必要になってくるのだと思う。なんでこの人こんなに頑張ってるんだろうと観察している場合ではないのだ。同じ目線に立てるくらいのエネルギーを持たなくては、そんな人たちとも仕事ができないのだと思う。僕は今の仕事を続けるならば、見合ったエネルギーが必要になってくる。今までは新しいことを始めた時に生まれるエネルギーでなんとかやってこれた。でもこれからは、そのエネルギーには頼れない。エネルギーの源泉から直接パイプを繋ぐ必要がある。…僕のエネルギーの源泉は何処だろうか?
僕は自分のエネルギーの源泉を探ってみて気がついたことがあった。
それは、ある言葉によってエネルギーの源泉に蓋がされていることだった。その言葉とは「人間はいずれ死に絶える」というものだ。死に絶えるのだから未来のために何かを残すことに意味は無い。今まで僕がいろんなモノに対して興味を持てなかった理由はおそらくこの考え方が原因だったのではないかと思う。グラフィックデザイナーになりたいと思えたのは、今まで自分で何かを作るという経験を少しでもしていたからであり、作るという行為に取っ掛かりがあったのだ。苦しい中で僕はそこに希望を見いだしたかの様に思っていたのだ。さて、話しを戻す。「人間はいずれ死に絶える」。この命題を僕は中々覆せずにいた。いっそのこと人間が死に絶える日は早々にはやってこないのだから、この際「死」に目をつむり、自分がどうすれば周囲と幸せに生きられるかを考えたほうがいいかもしれないと思った。しかし、それは結局のところ、「死」という現実から目をそむけているに過ぎなかった。そこで「死」についてもう少し考えてみようと思った。
そもそも「死」とはなんだろうか。ようやく僕は文章冒頭に書いた「死」について考えだした。
人の死に様は様々だ。誕生した瞬間から誰もが避けられず、迎え入れなければならないのが「死」だ。その死に至るまでの間、人間は待ち続けなければならない。明日死ぬと分かっていればそれを受け止める努力もするかもしれない。しかし、その日がいつ来るか分からないような中で死を受け入れるということはとても苦しいことだと思う。怖くもなる。覆い隠してしまいたくもなる。僕が死についてどう捉えているかと言えば死を、死ぬ瞬間までの楽しみにしようと考えていた。しかしそれは死をポジティブに保留するということだ。それは結局覆い隠しているのと変わらない。僕は他者の死生観が気になった。そこでネットで検索すると…人の死生観が沢山載ってる。今の僕にはありがたいことなんだけど、こんなにも簡単に出てくる情報に、僕はなんとも不思議な気分に陥ったがそれはさておく。資料を読み進める中で僕は1つ出会いをした。
天国に行きたいと願う人ですら、まさかそこに行くために死にたいとは思わない。にも関わらず死は我々みんなが共有する終着点なんだ。かつてそこから逃れられた人は誰一人としていない。そしてそれは、そうあるべきことだら、そういうことになっているんですよ。何故と言うなら、死はおそらく生が生んだ唯一無比の、最高の発明品だからです。それは生のチェンジエージェント、要するに古きものを一掃して新しきものに道筋を作っていく働きのあるものなんです。(スタンフォード大学におけるスティーブン・ジョブズのスピーチを一部抜粋)
この文章と出会った瞬間、僕は叫びだしたくなるような気持ちだった。
本当に、泣きそうになった。彼の伝えたい内容ではないかもしれない、でもこの言葉によって僕はようやく1つの考えが僕の中に生まれた。それは「死は誰かにとっての始まりである」ということだ。一個人で考えると死はその人の終焉でしかない。人間全体で考えても死は種の終焉でしかない。でも、生命全体で考えた時、人間の終焉は誰かの始まりになる。僕は死を1つの終わりであると考えていた。人間が死に絶えることこそ、本当の終焉であり、世界の終わりであると考えていた。しかし、そうではないかもしれないということに気がついた。死とは新しい世界の始まりなのだ。このような書き方をしたが、僕は必ずしも「死」というものをポジティブには捉えられてはいない。親しい人が亡くなるのは悲しいことだと思う。今回の話はあくまで相当俯瞰した見方で捉えた「死」だ。もっと小さな目線でみた時の死についてはまだ僕は考えられてはいない。それを考えるのはまた次回にしたい。
今回の僕の思考のとりあえずの終着点
「人間はいずれ死に絶える」でも「新しい世界がそこから始まる」ということだ。人間が死ぬこともまた、何かの始まりなのだとしたら、僕は死に向かうまで、一生懸命生きたいと、そう思えるようになった。
胸にあった違和感がとれたということは、おそらくエネルギーの源泉の蓋は少しばかりとれたということだと思う。エネルギー自体はまだ掘り起こせてはいないのだが、今回はここまでにしておく。これ以上やると仕事が中々進まなそうだし…もしまた違和感が生まれたらその時また考えることにしたいと思う。
モダンファート|死生観についてのインタビュー
http://modernfart.jp/2012/08/8761/
ほぼ日|死を想う
http://www.1101.com/okuribito/index.html
スティーブン・ジョブズのスタンフォード大学におけるスピーチ
http://psty.tumblr.com/post/9502833615/steve-jobs